ペパダイン大学、最後の年に凄い事が起こった。私がペパダイン大学で専攻していたのはビジネス・アドミニストレーション。つまり、ビジネス学部だった。ファインアート、宗教、歴史、哲学などについて語ってきたが、当然ビジネスの専門コース科目も履修している。
入学したUCLAから移籍当時、スチューデントアドバイザーのSteve Atkinson先生の手助けで、法政大学、UCLAでの一部のビジネス科目のクレジットが認められたこともあり、ビジネス科目については、かなり楽になった。
成績も順調にスコアを伸ばしていって、このまま順調にいけば(ビジネス以外の必須科目の履修がうまくいけばの話)、1975年の冬には卒業に必要な単位が修了するはずである。しかし、ビジネス科目もそう簡単ではない。専門科目というと教科書以外に、科目によっては2冊、3冊、更に副読本を読まされるものもある。それもどの副読本も背表紙が3センチから4センチの厚さがあるものばかりである。
ペパダイン大学の場合、トライメスター(1年を3学期に割る)システム制だから、1学期が約3か月半位で終了。したがって3か月半で4冊から5冊の本を読む計算になる。これは結構きつかった。トータルで一体何ページになったか覚えていないが。。。
しかも、相当のスピードで読まなければ、ついていけないのは確かだった。さすが私が卒業に近くなったころは読解力はかなりスピードアップしていたと思う。ビジネス本以外にも、アメリカの小説家、Steven King(スティーブン・キング)やSidney Sheldon(シドニー・シェルダン)など、ポピュラーな作家の本は、かなりのスピードで読めるようになっていた。
さて、ペパダイン大学も最後残り1学期という頃、必須科目の哲学(ウェスタン・シビリゼーションの代替科目)とビジネス専門コース一科目をのこすのみとなっていた。そして、最後の学期に私にとって、学校からの最後のギフトともいえる科目に遭遇した。この年の最後に1学期だけだが、短期でカリフォルニア州、リバーサイド市(LAから車で1時間半ほど内陸に入った市)にある著名なクレアモント大学院の教授をしていた、あの憧れのピーター・ドラッカー教授がペパダイン大学で数週間授業をするということになっていた。もちろん、この授業は私の卒業に必ずしも必須ではなかったが、申し込んで履修し、講義を受けることとなった。
教科書は、もちろんManagement「マネジメント」である。私は、この話を聞いた時に、既に本を購入して読み始めていたので、非常にエキサイティングだった。講義中はなかなか先生と話す機会もなかったが、ある時、チャンスが巡ってきた。当時の私のビジネスの教授Dr. Yete(イェイツ博士)から声がかかった。
Dr. Yete(イェイツ博士)から、ピーター・ドラッカー教授を求めて日本から企業の代表的経営者たちがペパダイン大学に来て、セミナーを受けることになった。君、ドラッカー先生に会ってこい!と言われ、教授の個室へと向かった。ドラッカー先生から「日本の経営者が2週間後に私のセミナーを受けに来るという。その通訳をやって欲しい。同時通訳は設備がないから、逐次通訳になる。君ができる速度で訳せば良い。」と言われて、びっくりした。
アメリカに来てまだ4年弱、大学で学んでまだ3年弱、英語そのものがまだ未熟で、「あまり自信がありません」と、やんわりと断ろうとしたが、先生は「心配ない。私の著書”マネジメント”の、この部分からここまで(ほとんど半分)読んできなさい。私の話、レクチャーは、ここに書かれていることをリピートするように話すだけだから、心配いらない。2週間で、しっかり本を読んでくれば出来る。この学校でビジネスを学ぶ日本人は君しかいないのだ。自信をもってやりなさい」と言われ、断れなくなって覚悟を決めた。
2週間かけて約350ページある「Management」を何度か読み返した。この本はアメリカの出版社から1973年に出版されたばかりだったから、日本ではまだ翻訳されていないピーター・ドラッカーの最新書籍であった。それだけでワクワク感もあって読んでいた。何度も何度も読んだ。ページにすると1,000ページを超えるほど読んだ。訳しながらというより、内容を理解するようにして読んだのが楽しかった。そして、2週間後の本番がやってきて、2時間のセミナーは、あっという間に終わった。
セミナー後、参加者約30名はドラッカー先生と名刺交換をしていた。このメンバーの中に私の将来へ導く、決定的なビジネスマンが何人か加わっていた。食品雑貨の製造業、繊維関係、アパレル企業、そして流通企業の何人かが、学生の私の所に寄って来て自己紹介してくれた。中には日本の流通業トップの人達もいた。いずれの人も「日本に来たら、是非うちの会社に寄って下さい」と言ってくれた。そして、後に言葉通り彼らを訪ねることになった。更に彼らの会社とTMIは長い付き合いとなり、おかげでTMIは設立から順調に走ることができたのである。ピーター・ドラッカー先生は、その後クレアモント大学院に戻り、それ以降はお会いしていないが、常に気にかけてきた。彼は2005年11月に亡くなった。
ピーター・ドラッカー先生は、私のアメリカに来るという夢を叶えてくれた大恩人である。その後、何かにつけ、この経験をみんなに話してビックリさせている。ドラッカー先生はビジネスの世界では神様みたいな人であるから、「え?!あのピーター・ドラッカーに会ったの?」「いや、彼の通訳をやったんだ」という会話になる。
確かに、私の中ではTMIの仕事を行うたびにピーター・ドラッカーが背中越しに見ている気がしている。私がアメリカに留学するきっかけとなったのが、ドラッカー先生の書いた「断絶の時代」だった。この本に触発されて、須賀川精機(私達が立ち上げたSEIKO第2精工舎のピンレバーウォッチ=スイスの時計と価格で戦うための格安腕時計製造工場)の鈴木工場長の後押しで、アメリカに行く決心をした。更に、両親からの援助もしてもらえて初めて実現した。それに、トヨタの自動車販売店の支店長をしていた従兄弟の村上良三さんが、私の愛車”トヨタマークⅡ”を高く買い戻してくれたのも大きな助けとなった。これらの支援がなかったら、LAまでの片道切符も買えなかっただろう。
さらに時代の後押しもあった。1970年代は日本が大きく動いた時だった。学生時代、何度か訪れた沖縄はまだアメリカの領土、植民地だった。そして、アメリカ行きのビザ(VISA)が書かれたパスポートを初めて手にして、日本にある”アメリカ”に初めて演奏旅行に行った。その後、1972年に沖縄がアメリカから日本に返還された。
戦後の沖縄は本当に荒んでいた。国際大通りは今日の様に舗装もされておらず、車が通るたびに、いつも土埃が舞っていて、すぐに顔が土埃まみれになってしまう。演奏を終えてホテルに帰ると、まず顔を洗った。国際大通りから、一歩裏の通りに入ると、ゴザで入口を塞いだ日本人の娼婦の仕事場が何軒も並んで客を呼んでいた。
当時は返還前だったが、本土との差が大きすぎて非常に心を痛めたのを覚えている。そして今、私はこの沖縄の米軍キャンプを相手に取引を行っている。
アメリカ国防省食糧局(DeCA)の依頼を受け、日本の米軍キャンプの中にあるカミサリー(一般にはスーパーマーケット)に食糧を卸している。顧客は全てアメリカ人の軍関係家族、海軍、陸軍、空軍に海兵隊である。また、我々の仕事で採用している人も全て軍関係の仕事をしていたアメリカ人で、日本にいてもアメリカで商売している様なものだ。話す言葉も英語のみで、時々、アメリカ人の片言の日本語に付き合って笑っている。だから、沖縄のことは常に気にかけている。